前衛派の旗手たち(その二十七)より
高柳重信には、山川蝉夫という、もう一つの筆名がある。この山川蝉夫では、多行式のものではなく、スタンダードな一行表記の俳句に使われている。
(春)
○軍隊が近づき春は来たりけり
○春暁は荒れたるよ富沢赤黄男の忌
○日当りを鶏が跳ぶ三鬼祭
○五十年むかしよ揚羽怖がりて
○春を惜しめり宵寝朝寝と寝溜めして
(夏)
○少年に五月ぞ青し悲しめり
○遠雷やいま吊鐘も声を出す
○河鹿鳴けり杉山に杉哭くごとく
○向日葵の頭に下りる雀かな
○五七五七と長歌は長し青葉木莬
(秋)
○秋来ぬと海の荒闇ひびくかな
○頬杖の指のつめたき夕野分
○海に沖あり霧時雨して見えざれど
○月明の山のすたちの秋の声
○母が長泣く我が七歳の秋の暮
(冬)
○なつかしく日が当りくる枯木かな
○小春日や墓の一基に腰おろし
○亡き友といふ言葉ある柚子湯かな
○まぼろしの白き船ゆく牡丹雪
○生きて久しや東京の雪は牡丹雪
(雑)
○檜坂すぎ杉坂をゆき病めりけり
○石に彫り野に捨てておく顔一つ
○これが君なるか払暁の泣き幽霊
○海と山と川と島見え神去る神
○六つで死んでいまも押入で泣く弟
『山川蝉夫句集』(昭和五十五年刊)からの四季と雑の句より五句ずつ抜粋した。この一行表記の俳句の作者・山川蝉夫が、多行表記俳句で名を馳せた高柳重信と同一人物かと首を傾げたくなるような、誠にスタンダードな俳句という思いが第一感であろう。
高柳重信には、もう一つ、『前略十年』(昭和二十九年刊)という一行表記の俳句集がある。これは、多行式俳句の、第一句集『蕗子』(昭和二十五年刊)と第二句集『伯爵領』(昭和二十七年刊)に次ぐ、第三句集ともいうべきものなのだが、実質は、俳句の創作を始めてから『蕗子』・『伯爵領』の多行式俳句に到達するまでの、その「前略十年」と理解しても差し支えないものであろう。それぞれの年次にあるもののうち一句のみのを抜粋すると次のとおりとなる。
○高々と煙突立てり春の空 (昭和十一年〜十五年)
○朧月大学生となりしかな (昭和十五年〜十七年)
○大学生でなくなる今日の鰯雲 (昭和十七年〜十九年)
○遅き月のぼりてくるや山河あり (昭和二十年〜二十一年)
○夜よ せめて 一点の鐘打ち鳴らせ (昭和二十一年〜二十三年)
この(昭和二十一年〜二十三年)には、「主として病床にあって、大いに作品を書き、文章を書いた。そして新しい様式を生もうと努力を続けた。数名のすぐれた友人たちが、いつも一緒にいて、ともに励ましあって勉強した。この頃「群」に続いて「弔旗」も二冊だけ発行した。この頃から埼玉県戸田町に住むことになった」との覚書きが記されている。
昭和二十一年というのは、重信が二十三歳の時で、この昭和二十一年というのは、いわゆる、桑原武夫の「(俳句)第二芸術」が、「世界」(昭和二十一年九月・「第二芸術論・現代俳句について」)に掲載され、それが世に公表された年でもある。
この桑原武夫の「「(俳句)第二芸術」については、その公表のずうと後にに、「毎日新聞」の「流行言」(昭和三十五年三月十三日付け)で、桑原自身が、その時代史的背景について述べられているのだが、それらについては、下記のアドレスのところに、その全文を記しているので、ここでは、そこに引用されている、歌人・近藤芳美の一文だけを紹介しておきたい。
http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html
・・・「・・・瓦礫の街の、澄み切った空の不思議な青さだけが思い出される。地上の貧しさ、苦渋と関わりない不思議な青さだった。「第二芸術論」の一連の文章を二十五年後の今読返しながら、わたしはふとそのような日々の空の色を連想した。議論のいさぎよいまでの透明さのためである。それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」。
まさに、桑原武夫の「(俳句)第二芸術」論が世に出たのも、そして、高柳重信が、「主として病床にあって、大いに作品を書き、文章を書いた。そして新しい様式を生もうと努力を続けた」という、その昭和二十一年当時というのは、「それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」という、戦後の新しい日本の夜明けを象徴するようなスタートの時代であったのだ。
この「戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期」に、重信は、二十三歳、そして、歌人の塚本邦雄は、二十四歳と、そして、重信が記すところの、「数名のすぐれた友人たちが、いつも一緒にいて、ともに励ましあって勉強した」との、その「友人」の一人のうちに、塚本邦雄を含めても、それほど違和感はないであろう。
そして、俳人・重信と歌人・邦雄とは、まさに、桑原武夫のいう「(俳句・短歌)第二芸術」からの脱皮を目指して、「新しい酒は新しい革袋に盛る」の、その「新しい革袋(様式)」
の変革に全力を傾注することとなる。
これらの二人に比して、詩人・北園克衛は、昭和二十一年当時、四十五歳と、戦前・戦中をかけての、「新しい革袋(様式)」の変革を完成させるような距離にあって、当時の詩壇をリードする立場にあった。もう一人の、寺山修司は、未だ、十歳と弱年であるが、しかし、克衛、邦雄、そして、重信が築き上げていく、その前衛的な収穫を、諸に、その後を継いで、それを享受していくという位置と環境にあったように思われる。
ともあれ、ここで、俳句という世界の「様式の変革者」としての高柳重信の、その実践の軌跡を、「一行表記・多行表記」という観点から、その作品を類型的に、抜粋してみたい。
一行表記の俳句
○全集の一冊買ふや啄木忌 (『前略十年』)
○怒濤 ああ 海さへ夜に敗れたり (『前略十年』)
○友よ我は片腕すでに鬼となりぬ (『山川蝉夫句集』)
二行表記の俳句
○月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵 (『蕗子』)
三行表記の俳句
○冷凍魚
おもはずも跳ね
ひび割れたり (『蕗子』)
四行表記の俳句
○海も
山も
出雲かなしや
紫なす (『日本海軍』)
五行表記の俳句
○明日は
胸に咲く
血の華の
よひどれし
蕾かな (『伯爵領』)
六行表記の俳句
○虎の
斑の
岬の
青き
淡き
祭 (『伯爵領』)
七行表記の俳句
○咲き
燃えて
灰の
渦
輪の
孤島の
薔薇 (『伯爵領』)
九行表記の俳句
○ 森
の 夜 更 け の
拝
火 の 彌 撒 に
身 を 焼く 彩
蛾 (『伯爵領』)
ここで、「短歌・俳句」という定型の世界のものではなく、自由詩という世界での「一行表記・多行表記」の詩というものを見て行きたい。
一行表記の詩
○ てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた (安西冬衛『軍艦茉莉』「春」)
二行表記の詩
○ 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。(三好達治『測量船』「雪」)
三行表記の詩
○友よ またアポロが沖の方から走つてくる
雨のハアプを光らせて
貝殻のなかに夕焼けが溜まる (北園克衛『夏の手紙』「驟雨」)
四行表記の詩
○ 蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのやうだ (三好達治『南窓集』「土」)
五行表記の詩
○夏はお洒落なポエムの季節です
グロキシニヤの花の蔭で
あなたの手紙は読んでしまつた
ホテルの甘いゼリイのやうに
お! ポンジュウルも言はずに雨が降る (北園克衛『夏の手紙』「朝の手紙」)
六行表記の詩
○秋の霧が
街の灯をやはらかな花びらで包む
恨みよりも悔いよりも近く
手と手との間を
落葉が流れ
ペデストリヤンの頬が芒の穂のやうに光る (北園克衛『火の菫』「舗道」)
七行表記の詩
○冬が手套をはく
銀行の花崗岩に木の枝と小鳥が写る
怠け好きな友よ
お
人間でゐよういつまでも
午前十時の街を歩く
太陽が歯を磨いてゐる (北園克衛『火の菫』「朝」)
七行・九行・十行・十一行表記の詩
○絶望
の
火酒
の
紫
の
髭
あるひは
骨
の
籠
のなか
の
影
の
卵
死
の
亀
の
夜
の
距離
孤独
は
黒
い
雨
に濡れ
て
梯子
の形
に腐つてゆく
その
壁
そ
の
脆い
円錐
の
孤独
の
部分 (北園克衛『黒い火』「黒い肖像」)
ここで、総括的に、それぞれの表記の俳句(高柳重信の俳句)と詩(安西冬衛・三好達治・北園克衛)とを並列的に鑑賞して見て、次のようなことに気づいてくる。
一 一行表記のものは、俳句作品の方が親しみやすい。一行表記の詩は、俳句的雰囲気を有している。
二 二行表記のものは、その各行の字数が、同じもの(「雪」の詩=句読点を除いて十七字)と違うもの(『蕗子』所収の作品、一行目=五字、二行目=十一字)とでは、雰囲気が異なってくる。同じものは、連歌・連句の「長句」(五七五=十七字)の「付合」(唱和)の趣で、違うものは、「長句」と「短句」(七七=十四字)の「付合」(唱和)の趣である。
三 三行表記のものは、各行の字数の多い、少ないによって、印象が異なってくる。
総じて、字数が少ないと、俳句的で、字数が多いと、自由詩という印象である。それにしても、重信の「冷凍魚/おもはずも跳ね/ひび割れたり」は、まさに、俳諧・俳句が本来的に有している「滑稽味」のする句で、俳人・重信の面目躍如たる思いがしてくる。
四 四行表記の詩というものは、自由詩のスタイルの中で最もスタンダードの印象を受ける。例えば、ソネットの「四・四・三・三」・「四・四・四・二」のように、一連が「四行」表記というものは、詩的な装いのように思われる。このことに関連して、例えば、重信の「海も/山も/出雲かなしや/紫なす」という字数が十三字と短いものであっても、この四行表記になると、自由詩的な装いという印象を受ける。
五 五行表記というものは、短歌の「五/七/五/七/七」の「分ち書き」のような印象で、この各行の字数が多いと、自由詩的な雰囲気で、字数が少ないと短歌的という印象を受ける。このことに関連して、俳句の「五/七/五」の三行表記は違和感は少ない。そして、自由詩は「五±α/五±α/五±α/五±α」の四行表記が基本的なスタイルという印象である。
六 六行以上の表記になると、例え、字数的に、「五七五」の十七音字以内であっても、俳句的な世界のものではないという印象を受ける。ただ、金子兜太らの「造型俳句」の「イメージの形象化」と「暗喩(メタファー)の強調」という視点からは、高柳重信が、これらの六行以上の表記で試行したものは、極めて、金子兜太らの「造型俳句」の一典型とも理解できるし、そういう意味においては、「造型俳句」という新しい領域を認知して、その俳句的世界の一つの試行と理解することにおいては吝かではない。それにしても、重信の「虎の/斑の/岬の/青き/淡き/祭」は、克衛の「造型的詩、図学的詩、図像的詩、コンクリート・ポエム、プラスティツク・ポエムズ」的な世界に近いものという印象を受ける(しかし、スタイル的には類似していても、「意味によって詩を作らない」という克衛の立場ではなく、「イメージの形象化」・「メタファーの強調」の一試行ということで、内容的には目指すものは同じではないという印象を受ける)。
(追記)
一 二行表記の詩歌と俳諧(連句)の「付合(唱和)」 → 「トルソー」(寺田寅彦)
二 三行表記の詩歌と俳諧(連句)の「三つ物」
三 四行表記の詩歌と俳諧(連句)の「十六韻」→「四・四・四・四」(新提示)
四 五行表記の詩歌と俳諧(連句)の「ロンド」(寺田寅彦)
五 六行以上の表記の詩歌と俳諧(連句)の「半歌仙」・「歌仙」→「折」のシステムから「連」のシステムの移行
寺田寅彦 連句雑俎
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2461_11119.html
一 連句の独自性
二 連句と音楽
三 連句と合奏
四 連句の心理と夢の心理
五 連句心理の諸現象
六 月花の定座の意義
七 短歌の連作と連句(抜粋)
ところが最近に寄贈を受けた「アララギ」の十一月号を開いて見ると、斎藤茂吉(さいとうもきち)氏の「大沢禅寺(だいたくぜんじ)」と題した五首の歌がある。これを一つの連作と見なして点検してみると、これは著しく他と異なった特徴をもっていることに気がつく。その五首というのは次のとおりである。
木原よりふく風のおとのきこえくるここの臥所(ふしど)に蚤(のみ)ひとついず
罪をもつ人もひそみておりしとううつしみのことはなべてかなしき
この寺も火に燃えはてしときありき山の木立ちの燃えのまにまに
おのずから年ふりてある山寺は昼をかわほりくろく飛ぶみゆ
いま搗(つ)きしもちいを見むと煤(すす)たりしいろりのふちに身をかがめつつ
この五首の短歌連結のぐあいを見ると、これは以上に述べて来た子規の例やまた近ごろの他の例に比べて著しく動的であり進行的であり旋律的であり、しかもその進行のしかたが、われわれの目で見ると著しく連句の進行し方と似たところがあるように思われるのである。ことに、たとえば初めの二首のごとき試みにこれを長句短句に分解してそれらをさらにある連句中の一部分として考えてみても実に立派な一連をなしているように思われる。この特徴はすでに同じ作者の昔の「赤光(しゃっこう)」集中の一首一首の歌にも見られるだれにも気のつく特徴と密接に連関しているものではないかと考えられるのである。