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永田耕衣の世界(その一)
JUGEMテーマ:小説/詩
 

『この世のような夢  永田耕衣の世界』(鳴戸奈菜・満谷マーガレット編訳)


一 絵馬の蜂牡丹の蜂に混じりけり


  
the bee in the picture

      mingles

      with bees in the peonies


(
メモ) ○蜂=三春。「すがる」は「以我蜂(じがばち)の古名。○牡丹=初夏。ぼうたん。絵馬の蜂と牡丹の蜂との取り合わせの句。耕衣の句にしては素直な句。



永田耕衣の世界14:55|-|-|
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高柳重信・山川蝉夫 そして、多行式俳句
JUGEMテーマ:小説/詩


前衛派の旗手たち(その二十七)より

 高柳重信には、山川蝉夫という、もう一つの筆名がある。この山川蝉夫では、多行式のものではなく、スタンダードな一行表記の俳句に使われている。

(春)

○軍隊が近づき春は来たりけり
○春暁は荒れたるよ富沢赤黄男の忌
○日当りを鶏が跳ぶ三鬼祭
○五十年むかしよ揚羽怖がりて
○春を惜しめり宵寝朝寝と寝溜めして

(夏)

○少年に五月ぞ青し悲しめり
○遠雷やいま吊鐘も声を出す
○河鹿鳴けり杉山に杉哭くごとく
○向日葵の頭に下りる雀かな
○五七五七と長歌は長し青葉木莬

(秋)

○秋来ぬと海の荒闇ひびくかな
○頬杖の指のつめたき夕野分
○海に沖あり霧時雨して見えざれど
○月明の山のすたちの秋の声
○母が長泣く我が七歳の秋の暮

(冬)

○なつかしく日が当りくる枯木かな
○小春日や墓の一基に腰おろし
○亡き友といふ言葉ある柚子湯かな
○まぼろしの白き船ゆく牡丹雪
○生きて久しや東京の雪は牡丹雪

(雑)

○檜坂すぎ杉坂をゆき病めりけり
○石に彫り野に捨てておく顔一つ
○これが君なるか払暁の泣き幽霊
○海と山と川と島見え神去る神
○六つで死んでいまも押入で泣く弟

『山川蝉夫句集』(昭和五十五年刊)からの四季と雑の句より五句ずつ抜粋した。この一行表記の俳句の作者・山川蝉夫が、多行表記俳句で名を馳せた高柳重信と同一人物かと首を傾げたくなるような、誠にスタンダードな俳句という思いが第一感であろう。
高柳重信には、もう一つ、『前略十年』(昭和二十九年刊)という一行表記の俳句集がある。これは、多行式俳句の、第一句集『蕗子』(昭和二十五年刊)と第二句集『伯爵領』(昭和二十七年刊)に次ぐ、第三句集ともいうべきものなのだが、実質は、俳句の創作を始めてから『蕗子』・『伯爵領』の多行式俳句に到達するまでの、その「前略十年」と理解しても差し支えないものであろう。それぞれの年次にあるもののうち一句のみのを抜粋すると次のとおりとなる。

○高々と煙突立てり春の空 (昭和十一年〜十五年)
○朧月大学生となりしかな (昭和十五年〜十七年)
○大学生でなくなる今日の鰯雲 (昭和十七年〜十九年)
○遅き月のぼりてくるや山河あり (昭和二十年〜二十一年)
○夜よ せめて 一点の鐘打ち鳴らせ (昭和二十一年〜二十三年)

この(昭和二十一年〜二十三年)には、「主として病床にあって、大いに作品を書き、文章を書いた。そして新しい様式を生もうと努力を続けた。数名のすぐれた友人たちが、いつも一緒にいて、ともに励ましあって勉強した。この頃「群」に続いて「弔旗」も二冊だけ発行した。この頃から埼玉県戸田町に住むことになった」との覚書きが記されている。
 昭和二十一年というのは、重信が二十三歳の時で、この昭和二十一年というのは、いわゆる、桑原武夫の「(俳句)第二芸術」が、「世界」(昭和二十一年九月・「第二芸術論・現代俳句について」)に掲載され、それが世に公表された年でもある。
 この桑原武夫の「「(俳句)第二芸術」については、その公表のずうと後にに、「毎日新聞」の「流行言」(昭和三十五年三月十三日付け)で、桑原自身が、その時代史的背景について述べられているのだが、それらについては、下記のアドレスのところに、その全文を記しているので、ここでは、そこに引用されている、歌人・近藤芳美の一文だけを紹介しておきたい。

http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

・・・「・・・瓦礫の街の、澄み切った空の不思議な青さだけが思い出される。地上の貧しさ、苦渋と関わりない不思議な青さだった。「第二芸術論」の一連の文章を二十五年後の今読返しながら、わたしはふとそのような日々の空の色を連想した。議論のいさぎよいまでの透明さのためである。それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」。

 まさに、桑原武夫の「(俳句)第二芸術」論が世に出たのも、そして、高柳重信が、「主として病床にあって、大いに作品を書き、文章を書いた。そして新しい様式を生もうと努力を続けた」という、その昭和二十一年当時というのは、「それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」という、戦後の新しい日本の夜明けを象徴するようなスタートの時代であったのだ。

 この「戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期」に、重信は、二十三歳、そして、歌人の塚本邦雄は、二十四歳と、そして、重信が記すところの、「数名のすぐれた友人たちが、いつも一緒にいて、ともに励ましあって勉強した」との、その「友人」の一人のうちに、塚本邦雄を含めても、それほど違和感はないであろう。
 そして、俳人・重信と歌人・邦雄とは、まさに、桑原武夫のいう「(俳句・短歌)第二芸術」からの脱皮を目指して、「新しい酒は新しい革袋に盛る」の、その「新しい革袋(様式)」
の変革に全力を傾注することとなる。
 これらの二人に比して、詩人・北園克衛は、昭和二十一年当時、四十五歳と、戦前・戦中をかけての、「新しい革袋(様式)」の変革を完成させるような距離にあって、当時の詩壇をリードする立場にあった。もう一人の、寺山修司は、未だ、十歳と弱年であるが、しかし、克衛、邦雄、そして、重信が築き上げていく、その前衛的な収穫を、諸に、その後を継いで、それを享受していくという位置と環境にあったように思われる。
 ともあれ、ここで、俳句という世界の「様式の変革者」としての高柳重信の、その実践の軌跡を、「一行表記・多行表記」という観点から、その作品を類型的に、抜粋してみたい。

一行表記の俳句

○全集の一冊買ふや啄木忌     (『前略十年』)
○怒濤 ああ 海さへ夜に敗れたり (『前略十年』)
○友よ我は片腕すでに鬼となりぬ  (『山川蝉夫句集』)

二行表記の俳句

○月下の宿帳
 先客の名はリラダン伯爵  (『蕗子』)

三行表記の俳句

○冷凍魚
 おもはずも跳ね
 ひび割れたり       (『蕗子』)

四行表記の俳句

○海も
 山も
 出雲かなしや
 紫なす        (『日本海軍』)

五行表記の俳句

○明日は
 胸に咲く
 血の華の
 よひどれし
 蕾かな       (『伯爵領』)

六行表記の俳句

○虎の
 斑の
 岬の
 青き
 淡き
 祭         (『伯爵領』)

七行表記の俳句

○咲き
 燃えて
 灰の
 渦
 輪の
 孤島の
 薔薇   (『伯爵領』)

九行表記の俳句

○   森
 の 夜 更 け の
    拝
火 の 彌 撒  に
 身 を 焼く 彩
    蛾         (『伯爵領』)


ここで、「短歌・俳句」という定型の世界のものではなく、自由詩という世界での「一行表記・多行表記」の詩というものを見て行きたい。

一行表記の詩

○ てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた (安西冬衛『軍艦茉莉』「春」)

二行表記の詩

○ 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。(三好達治『測量船』「雪」)

三行表記の詩

○友よ またアポロが沖の方から走つてくる
 雨のハアプを光らせて
 貝殻のなかに夕焼けが溜まる  (北園克衛『夏の手紙』「驟雨」)

四行表記の詩

○ 蟻が
  蝶の羽をひいて行く
  ああ
  ヨットのやうだ  (三好達治『南窓集』「土」)

五行表記の詩

○夏はお洒落なポエムの季節です
 グロキシニヤの花の蔭で
 あなたの手紙は読んでしまつた
 ホテルの甘いゼリイのやうに
 お! ポンジュウルも言はずに雨が降る (北園克衛『夏の手紙』「朝の手紙」)

六行表記の詩

○秋の霧が
 街の灯をやはらかな花びらで包む
 恨みよりも悔いよりも近く
 手と手との間を
 落葉が流れ
 ペデストリヤンの頬が芒の穂のやうに光る (北園克衛『火の菫』「舗道」)

七行表記の詩

○冬が手套をはく
 銀行の花崗岩に木の枝と小鳥が写る
 怠け好きな友よ
 お
 人間でゐよういつまでも
 午前十時の街を歩く
 太陽が歯を磨いてゐる  (北園克衛『火の菫』「朝」)

七行・九行・十行・十一行表記の詩

○絶望
 の
 火酒
 の
 紫
 の
 髭

 あるひは
 骨
 の
 籠
 のなか
 の
 影
 の
 卵

 死
 の
 亀
 の
 夜
 の
 距離

 孤独
 は
 黒
 い
 雨
 に濡れ
 て
 梯子
 の形
 に腐つてゆく

 その
 壁
 そ
 の
 脆い
 円錐
 の
 孤独
 の
 部分       (北園克衛『黒い火』「黒い肖像」)

 ここで、総括的に、それぞれの表記の俳句(高柳重信の俳句)と詩(安西冬衛・三好達治・北園克衛)とを並列的に鑑賞して見て、次のようなことに気づいてくる。

一 一行表記のものは、俳句作品の方が親しみやすい。一行表記の詩は、俳句的雰囲気を有している。

二 二行表記のものは、その各行の字数が、同じもの(「雪」の詩=句読点を除いて十七字)と違うもの(『蕗子』所収の作品、一行目=五字、二行目=十一字)とでは、雰囲気が異なってくる。同じものは、連歌・連句の「長句」(五七五=十七字)の「付合」(唱和)の趣で、違うものは、「長句」と「短句」(七七=十四字)の「付合」(唱和)の趣である。

三 三行表記のものは、各行の字数の多い、少ないによって、印象が異なってくる。
総じて、字数が少ないと、俳句的で、字数が多いと、自由詩という印象である。それにしても、重信の「冷凍魚/おもはずも跳ね/ひび割れたり」は、まさに、俳諧・俳句が本来的に有している「滑稽味」のする句で、俳人・重信の面目躍如たる思いがしてくる。 

四 四行表記の詩というものは、自由詩のスタイルの中で最もスタンダードの印象を受ける。例えば、ソネットの「四・四・三・三」・「四・四・四・二」のように、一連が「四行」表記というものは、詩的な装いのように思われる。このことに関連して、例えば、重信の「海も/山も/出雲かなしや/紫なす」という字数が十三字と短いものであっても、この四行表記になると、自由詩的な装いという印象を受ける。

五 五行表記というものは、短歌の「五/七/五/七/七」の「分ち書き」のような印象で、この各行の字数が多いと、自由詩的な雰囲気で、字数が少ないと短歌的という印象を受ける。このことに関連して、俳句の「五/七/五」の三行表記は違和感は少ない。そして、自由詩は「五±α/五±α/五±α/五±α」の四行表記が基本的なスタイルという印象である。

六 六行以上の表記になると、例え、字数的に、「五七五」の十七音字以内であっても、俳句的な世界のものではないという印象を受ける。ただ、金子兜太らの「造型俳句」の「イメージの形象化」と「暗喩(メタファー)の強調」という視点からは、高柳重信が、これらの六行以上の表記で試行したものは、極めて、金子兜太らの「造型俳句」の一典型とも理解できるし、そういう意味においては、「造型俳句」という新しい領域を認知して、その俳句的世界の一つの試行と理解することにおいては吝かではない。それにしても、重信の「虎の/斑の/岬の/青き/淡き/祭」は、克衛の「造型的詩、図学的詩、図像的詩、コンクリート・ポエム、プラスティツク・ポエムズ」的な世界に近いものという印象を受ける(しかし、スタイル的には類似していても、「意味によって詩を作らない」という克衛の立場ではなく、「イメージの形象化」・「メタファーの強調」の一試行ということで、内容的には目指すものは同じではないという印象を受ける)。

(追記)

一 二行表記の詩歌と俳諧(連句)の「付合(唱和)」 → 「トルソー」(寺田寅彦)
二 三行表記の詩歌と俳諧(連句)の「三つ物」
三 四行表記の詩歌と俳諧(連句)の「十六韻」→「四・四・四・四」(新提示)
四 五行表記の詩歌と俳諧(連句)の「ロンド」(寺田寅彦)
五 六行以上の表記の詩歌と俳諧(連句)の「半歌仙」・「歌仙」→「折」のシステムから「連」のシステムの移行

寺田寅彦 連句雑俎

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2461_11119.html

一 連句の独自性
二 連句と音楽
三 連句と合奏
四 連句の心理と夢の心理
五 連句心理の諸現象
六 月花の定座の意義
七 短歌の連作と連句(抜粋)

 ところが最近に寄贈を受けた「アララギ」の十一月号を開いて見ると、斎藤茂吉(さいとうもきち)氏の「大沢禅寺(だいたくぜんじ)」と題した五首の歌がある。これを一つの連作と見なして点検してみると、これは著しく他と異なった特徴をもっていることに気がつく。その五首というのは次のとおりである。

木原よりふく風のおとのきこえくるここの臥所(ふしど)に蚤(のみ)ひとついず
罪をもつ人もひそみておりしとううつしみのことはなべてかなしき
この寺も火に燃えはてしときありき山の木立ちの燃えのまにまに
おのずから年ふりてある山寺は昼をかわほりくろく飛ぶみゆ
いま搗(つ)きしもちいを見むと煤(すす)たりしいろりのふちに身をかがめつつ

 この五首の短歌連結のぐあいを見ると、これは以上に述べて来た子規の例やまた近ごろの他の例に比べて著しく動的であり進行的であり旋律的であり、しかもその進行のしかたが、われわれの目で見ると著しく連句の進行し方と似たところがあるように思われるのである。ことに、たとえば初めの二首のごとき試みにこれを長句短句に分解してそれらをさらにある連句中の一部分として考えてみても実に立派な一連をなしているように思われる。この特徴はすでに同じ作者の昔の「赤光(しゃっこう)」集中の一首一首の歌にも見られるだれにも気のつく特徴と密接に連関しているものではないかと考えられるのである。
 


高柳重信周辺19:58|-|-|
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高柳重信と北園克衛
JUGEMテーマ:小説/詩


前衛派の旗手たち(その十四)より

 前回(その十三)難渋した、北園克衛の「死と蝙蝠傘の詩」の、次の二連目のものを、単独で抜き書きをしたら、克衛は、目を白黒して、絶句するかもしれない。この四行のものは、実に平易で、イメージとして一人歩きして、「死の灰」の「黒い雨」などが定着する怖れがなくもない。

五月
の夜
は雨すら
黒い

 しかし、克衛が、これらのフレーズで実験したように、この四行のものを、いわゆる、定型感覚で見ていくと、俳諧(連句)における「短句」(十四字、七・七句)という雰囲気でなくもない。

○ 五月の夜は・雨すら黒い (七・七)

 そして、あろうことか、その前の、冒頭の下記の一連目の次の四行のものも、決して、日本古来からの定型感覚を完全には脱していない感じでなくもないのである。すなわち、俳諧(連句)における長句(十七字、五・七・五句)の破調のものと詠めないこともないのである。


その黒い憂愁
の骨
の薔薇

○ 星その・黒い憂愁の・骨の薔薇 (四・八・五=五・七・五の破調の句)

 ここに、日本古来の「定型の魔力」が、前衛詩人の、西洋の詩人をも魅了した日本の詩人・北園克衛の骨身に沁みているということなのであろうか。これを、俳諧(連句)式に表示すると次のとおりとなる。

○ 星その黒い憂愁の骨の薔薇  (長句、季語=薔薇=初夏、前句)
  五月の夜は雨すら黒い   (短句、季語=五月=初夏、付句)

 そして、この一番目の「長句」が、「連歌・連句」では「発句」と呼ばれ、それが、明治維新後の、正岡子規によって、単独で作句・鑑賞される「俳句」になり、この「付句」の「短句」は、「川柳」の世界などで、今なお、「十四字」として、少数派ではあるが実践し続けられているのである。
 ここで大事なことは、前句(この場合、長句)に付句(この場合、短句)をするときに、全く、前句を、丁度、克衛流の「オブジェ(言葉の組み合わせによる造形的な作品)として、自由に鑑賞」して、前句作者のイメージ(作句意図)に関係なく、付句(作句)をしてよろしいということで、むしろ、前句にとらわれることを嫌い(付け過ぎ)、前句の言葉付けや意味付けよりも、余韻・余情に着目しての「匂い付け」がベターということで、一定のスタンスを置くということになる。また、「同字五句去り(三句去り)」とかのルールもあって、前句の「黒い」に、付句の「黒い」は、「これはどうも」ということで敬遠される。
 すなわち、俳諧(連句)の流れからいけば、この「死と蝙蝠傘の詩」の一連と二連とでは、「付け過ぎ」の、どうにも、「イメージの飛躍」が乏しいということにもなろう。
そういうことを抜きにしても、克衛らの前衛的なプラスティック・ポエム(造形詩)を、「オブジェ」的に鑑賞するということは、決して、目新しいことではなく、それこそ、「意味がないのは気持いい」ということで(自由自在の付句を奨励するということで)、俳諧(連連句)の基本的な「変化・転じ」ということからも、非常に、近い世界のものだということも実感する。
ここで、高柳重信の次の多行式俳句とその鑑賞(清水哲男)のものを見てみたい。

(「増殖する俳句歳時記」)
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19961105,20000328,20010826,20031126,20081010&tit=高柳重信&tit2=高柳重信の

・・・

November 26-2003  高柳重信

飛騨
大嘴の啼き鴉
風花淡の
みことかな

 季語は「風花」で冬。晴れていながら、今日の「飛騨」は、どこからか風に乗ってきた雪がちらちらと舞っている。寒くて静かだ。ときおり聞こえてくるのは、ゆったりとした「大嘴(おおはし)」(ハシブトガラス)の啼き声だけだ。日本中のどこにでもいる普通の「鴉」にすぎないが、このような静寂にして歴史ある土地で啼く声を聞いていると、何か神々しい響きに感じられてくる。まるで古代の「みこと(神)」のようだと、作者は素直に詠んでいる。かりそめに名づけて「風花淡(かざはなあわ)の/みこと」とは見事だ。地霊の力とでも言うべきか、古くにひらけた土地に立つと、私のような俗物でも身が引き締まり心の洗われるような思いになることがある。ところで、見られるように句は多行形式で書かれている。作者は戦後に多行形式を用いた先駆者だが、一行で書く句とどこがどう違うのだろうか。これには長い論考が必要で、しかもまだ私は多行の必然性を充分に理解しているという自信はない。だからここでは、おぼろげに考えた範囲でのことを簡単に記しておくことにしよう。必然性の根拠には、大きく分けておそらく二つある。一つには、一行書きだと、どうしても旧来の俳句伝統の文脈のなかに安住してしまいがちになるという創作上のジレンマから。もう一つは、行分けすることにより、一語一語の曖昧な使い方は許されなくなるという語法上の問題からだと考える。この考えが正しいとすれば、作者は昔ながらの俳句様式を嫌ったのではない。それを一度形の上でこわしてみることにより、俳句で表現できることとできないことをつぶさに検証しつつ、同時に新しい俳句表現の可能性を模索したと解すべきだろう。掲句の形は、連句から独立したてのころの一行俳句作者の意識下の形に似ていないだろうか。同じ十七音といっても、発句独立当時の作者たちがそう簡単に棒のような一行句に移行できたわけはない。心のうちでは、掲句のように形はばらけていたに違いないからだ。前後につくべき句をいわば恋うて、見た目とは別に多行的なベクトルを内包していたと思う。したがって、高柳重信の形は奇を衒ったものでも独善的なものでもないのである。むしろ、一句独立時の初心に帰ろうとした方法であると、いまの私には感じられる。『山海集』(1976)所収。(清水哲男)

・・・

この「高柳重信の形は奇を衒ったものでも独善的なものでもないのである。むしろ、一句独立時の初心に帰ろうとした方法である」という指摘は鋭い。すなわち、「俳諧(連句)と訣別した一句独立した俳句は、俳諧(連句)の付句(後続する句)を予定している発句とは形も内容も峻別すべきであり、それが形として『多行式』になり、その内容は徹底した『切れ』の重視(一語一語の曖昧な使い方は許されない)となる。それが重信の多行式俳句の真意なのである」ということにもなろう。
これらのことは、この重信の句を、次の一行表示にして見ると明瞭になってくる。

○ 飛騨大嘴の啼き鴉風花淡のみことかな (七・五・七・五)

これでは、おそらく「俳句」として未完成の推敲前のものと理解されよう。「字余り」にする必然性もないし、いわゆる、「七五調」の今様調の「いろは歌」の如きで、次のように、
さらに、「七・五」、「七・五」と続く雰囲気である。

○ 飛騨大嘴の啼き鴉  (七・五)
  風花淡のみことかな (七・五)
  色は匂へど散りぬるを
  我が世誰ぞ常ならむ
  有為の奥山今日越えて
  浅き夢見じ 酔ひもせず

 ここで、重信の第一句集『蕗子』に寄せた、富沢赤黄男の、その「序」の「俳句といふ短詩を一行詩だと強硬に定義づける人々は、何故に俳句は一行詩でなければならないのかといふその必然を、伝習や技術の上からでなく、その本質にあひわたつて明示する責任をとらねばなるまい」ということを想起する(これらのことは「その七」で触れた)。
重信の「彼の言葉の秩序への極度の追求、純粋の言葉の有機的構成、固定概念の拒否」・「彼の詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある」(赤黄男の「序」)という、その重信の「実験」が、必然的に、次のような形と内容になって現出したのである。

○ 飛騨
  大嘴の啼き鴉
  風花淡の
  みことかな

 ここまで来て、今度は、北園克衛の実験的な前衛詩と、高柳重信の実験的な前衛俳句との対比であるが、前者の克衛が、「『意味によって詩(ボエジイ)を作らない』で、『詩(ポエジイ)によって意味を形成』している」のに比して(「その十三」で触れた)、後者の重信は、「『意味によって詩(ボエジイ)を作り』、そして、『その詩(ポエジイ)によって新たなる意味をも形成』してくる」とでもなろうか。
 これらのことは、関係するところで、折りに触れて、これからも触れていくこととする。
 そして、北園克衛、富沢赤黄男、そして、高柳重信をリンクさせる詩人として、数々の前衛的な実験を敢行したところの、吉岡実の存在が浮かびあがってくるのである。その吉岡実のネット記事なども、ここに付記して置きたい。

(諧謔・人体・死・幻・言語――吉岡実のいくつかの詩を読む)

http://po-m.com/inout/id91.htm

 吉岡実は、言葉を慎重に取り扱って、死と関わるような暗い諧謔、豊饒なにぎやかさ、不穏なざわめき、他の書き方では存在しない独特な〈詩論〉であるような筋、それから(視覚的あるいは聴覚的な)リズム、あるいはもしかしたら、存在感のある幻のような、グロテスクなあるいは綺麗なものの出現、のあるような詩を書いた、ということをとりあえず言うことはできそうだ。単語の選び方、文の組み立て方、カッコの使い方と位置、行の分け方、詩の始め方・終わらせ方、喋る時のような文体の使用、などが(好む人と好まない人がいるだろうが)興味深い。言語を使ってどれくらい多くのことを成し遂げることができるか、単なる情報(事件、教訓、感情など)を伝達するだけの言語ではなくて、言語の群れそのものが動く物体のように出現してくるかどうか、というのが〈現代詩〉の最大の問題であるとするなら、その問いについて最も真摯に考えた詩人の1人が吉岡実であった、ということは言えるのかもしれない。


高柳重信周辺19:39|-|-|
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高柳重信と金子兜太
前衛派の旗手たち(その十)より

 一九九八年五月〜六月に、群馬県立土屋文明記念文学館で「戦後俳句の光彩 金子兜太・高柳重信」と題する「第五回企画展」が開催された。この文学館の館長は詩人の伊藤信吉である。その伊藤信吉が、「上州地縁において 御案内ひとこと」と題して、次のように綴っている。

・・・

  空つ風にわかに玲瓏となるときも   兜太

おお上州! 作者名を伏せて読めばこれは上州人の風土感覚そのもの。と言っても作者は埼玉の人。と言っても埼玉は埼玉ながら群馬と地つづきの感の熊谷の人。おなじ空っ風の吹くその地の人。

  暗黒や関東平野に火事一つ      兜太

 またしても、おお上州! 遠い日の夜、まっくら闇の野の向うの方に燃えていた火事、音の無くただ燃え立っていた火炎。そうかとおもうと濃い闇の夜の一列の狐火の幻。金子さんの定住漂泊の思いと、即興と造型の同時性の世界。〈地縁同郷〉の人がここに居る。

 軍靴に来て/蘆生の/雲雀/絶えにけり  重信

 一行句ふうに書き写したけれど、これはもと四行書きの作品。形式破壊、形式革命。会場へ入ってそれを見て下さい。前衛俳句の高柳さんはその多行形式を、四行〈自己定形〉のように形成し、鮮烈な新世界をひらいた。いたるところのその切口の美。

 秋山の/赤城を/忘れ/忘れ果て     重信

 郷愁なりや。もともと高柳さんは佐波郡境町に墓地のある人。上州の人。それにしても山村暮鳥の形式変革、萩原恭次郎の形式革命。高柳重信の多行変革。おお上州アヴァンギャルドの系譜たち。

・・・
 
 この詩人・伊藤信吉館長の「御案内ひとこと」での、前衛俳人の雄の金子兜太をして、「即興と造型の同時性の世界」、また、高柳重信をして、「前衛俳句の高柳さんはその多行形式を、四行〈自己定形〉のように形成し」という指摘は、実に、当を得ている。また、「山村暮鳥の形式変革、萩原恭次郎の形式革命。高柳重信の多行変革。おお上州アヴァンギャルドの系譜たち」という指摘も、同郷の詩人ならではという思いがする。

 そう言えば、山村暮鳥もまた、「新詩体から口語自由詩への変革期の中で、革新的な作風から人道主義的な作風まで、これほど短期間の間で己の詩質と詩風を何度も変容させた詩人はまれであり」といわれている、まさに「形式変革」の人であった。
 それにもまして、萩原恭次郎になると、己の政治信条(アナーキズム)と文学信条(ダダイズム)と、その二つの面において、前衛派の先頭に立ち、まさに「形式革命」に殉じた詩人であった。その前衛派の拠点誌の一つの「MAVO(マヴォ)」(村山知義らの「日本の戦前のダダ(美術系統)のグループ」)には、若き日の北園克衛らが参加し、それらは形を変えて克衛らの機関誌「VOU(バウ)」とも繋がって行くのである。
 続いて、詩人・伊藤信吉が指摘する高柳重信の「多行変革」とは、戦後の日本俳壇に一大警鐘を鳴らした「多行式俳句」の提示という「多行変革」(重信の師の富沢赤黄男をして「俳句といふ短詩を一行詩だと強硬に定義づける人々は、何故に俳句は一行詩でなければならないのかといふその必然を、伝習や技術の上からでなく、その本質にあひわたつて明示する責任をとらねばなるまい」と言わしめたところ「多行変革」)を意味しよう。
 これらの三人に共通することは、これこそが、詩人・伊藤信吉館長の、「御案内ひとこと」の末尾の言葉、すなわち、「アヴァンギャルドの系譜たち」ということになろう。

「アヴァンギャルド(avant-garde)」とは、一般には、「前衛芸術(または前衛美術)」の意であるが、この「御案内ひとこと」の伊藤信吉の言う「アヴァンギャルドの系譜たち」の「アヴァンギャルド」というのは、広い意味での「保守的な権威に対する『変革・革命』を目指す前衛」ということを意味し、「山村暮鳥・萩原恭次郎・高柳重信」は、その正統な「系譜を継ぐ詩人たち」なのだということを意味しょう。
とすれば、北園克衛も、塚本邦雄も、はたまた、寺山修司もまた、高柳重信と同じく、「アヴァンギャルドの系譜たち」であることにについて、いささかの抵抗も感じないのである。

 ここで、山村暮鳥の『雲』(「序」の「結びの一節」)と萩原恭次郎の『死刑宣告』(「日比谷(詩七篇)」の一篇「地震の日に」) のネット記事のアドレスとその一端を紹介して置きたい。

山村暮鳥の『雲』(「序」の「結びの一節」)

http://www.nextftp.com/y_misa/bocho/bocho_my.html

・・・芸術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの芸術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や真実の行為に相対するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが芸術をして真に芸術たらしめるものである。芸術における気稟の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る叙述、表現にをはつてゐるかゐないかは徴頚徹尾、その何かの上に関はる。その妖怪を逃がすな。 それは、だが長い芸術道の体験においてでなくては捕へられないものらしい。何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。

 萩原恭次郎『死刑宣告』(「日比谷(詩七篇)」の一篇「地震の日に」。この詩は「関東大震災」のものであろう。そして、この「関東大震災」のあった年に、高柳重信は誕生した。)

http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%AE%A3%E5%91%8A

死に誘ふものは分らない

くぢけてしまつた道路の間に
首がころがつて笑つてゐる
裂かれた肉体がはなれて笑つてゐる
破裂した心臓が
ねぢれた儘 動かない

干からびた苦い血を嘗めて
友よ!
————生きて 生きて…………………
両手をひろげて
  その首にかぢりついて
接吻する
血と砂とにむせて乾きついた儘
私は
  固く
————————哭く
その肉体に
————————血をそゝぎ
————————血で洗はふ!
砕けてしまつた市街の上に
彼と我との意思は
蒼ざめて発光する

ころがつてゐる首
焼け残つた白骨
残つた生存は
誰にこれからを捧げやうか
干からびた血と血を嘗めて
友よ!
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高柳重信周辺19:33|-|-|
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高柳重信と北園克衛
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前衛派の旗手たち(その九)より

 三巡目のトップは、前回(その八)に続き、北園克衛でいくこととする。克衛については、死後、『北園克衛 エッセイ集』(二〇〇四年刊)が刊行された。そのうちの「前衛の行方」というのが面白い。

・・・「文学」 いずれ言語はモールス信号のようなものになるだろう。
・・・「音楽」 音楽はその時空の比例を逆転して音響芸術となるべきであろう。

 この「文学 ・・・いずれ言語はモールス信号のようなものになるだろう」というのは、もう既に、重信の次のようなもの(その二で紹介)では、「モールス信号のようなもの」といっても良いのではないかと、そんなことを実感する。

・・・  ●●○●
     ●○●●○
     ★?
     ○●●
     ―○○●

 いや、短歌(三十一音字)や俳句(十七音字)の世界では、その作品は氷山のほんの一角で、その海面には、膨大な謎の世界のようなものが蠢いている。その謎めいたものを探りあてる面白さが、短歌や俳句という短詩型の世界の鑑賞の魅力の一つなのかも知れない。
 克衛には、『句集 村』というのがあり、俳句にも造詣が深かったのだろう。ネット記事(日刊・この一句)で、坪内稔典の鑑賞ものを目にした。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_1201.html

・・・2002年12月5日 役僧の青き頭巾や冬木立 (季語/冬木立) 北園克衛
 役僧は法会などで導師を補助する僧。その役僧が冬木立の道を歩いている。法会などの準備のためだろうか、早足だ。僧の青い頭巾が枯れた木立の中で一層青く鮮やか。
 作者は1902年生まれのモダニズムの詩人。詩集に『白のアルバム』などがある。俳句雑誌「風流人」によって俳句も作り、没後の1980年に句集『村』が出た。「瓢箪のくびれて下る暑さかな」「冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁」「僧坊に病む人のあり大糸瓜」「白塗りの船の行方や鰯雲」「初富士や葱より高く二三寸」「秋晴や土新しき切通し」「古文書をまたよみかへす若葉かな」。これらが『村』にある句だが、初富士を葱畑の彼方に望んだ句の構図がおもしろい。ちなみに、今年は克衛の生誕百年。それで「現代詩手帖」11月号が特集を組んでおり、俳人・小澤實の評論「北園克衛、その俳句」が載っている。(坪内稔典)

 ここで、紹介されている、克衛の俳句を抜き書きして見ると次のとおりとなる。

○ 役僧の青き頭巾や冬木立
○ 瓢箪のくびれて下る暑さかな
○ 冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁
○ 僧坊に病む人のあり大糸瓜
○ 白塗りの船の行方や鰯雲
○ 秋晴や土新しき切通し
○ 古文書をまたよみかへす若葉かな

 これらの克衛の句作というのは、先(その八)の「抒情・和風・実験」という区分からするならば、「和風」という区分けに入るものなのかも知れない。上記の七句を見て、克衛俳句の特徴は、「切字・切れ」の重視というようなものが窺える。 
「役僧の青き頭巾や冬木立」(中七「や」切り)、「瓢箪のくびれて下る暑さかな」(下五の「かな」留め)、「冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁」(中七「あり」で切れ、二句一章体)、「僧坊に病む人のあり大糸瓜」(中七「あり」で切れ、二句一章体)、「白塗りの船の行方や鰯雲」(中七「や」切り)、「秋晴や土新しき切通し」(上五「や」切り)、「古文書をまたよみかへす若葉かな」(下五の「かな」留め)と、「や・かな」の古典的な「切字」の多用と、俳句の基本的なスタイルの「二句一章体」(中七で切り、下五の体言留めの二句一章体)を基本にしているという雰囲気である。
もとより、「冬木立・暑さ・冬瓜・大糸瓜・鰯雲・秋晴・若葉」と、これまた、「有季・定型派」の伝統的なスタイルで、「自然諷詠」・「人事諷詠」も一方付かず、「モダニズムの詩人」の、その「モダニズム」を拒否しているような姿勢で、それが却って心地よい雰囲気である。

 克衛には、「雪と蕪村の句」・「『古池』と『御手討』」というエッセイがあり、芭蕉よりも蕪村好きということを鮮明にしている。

・・・日本の詩にとって芭蕉のリリシズム(注・芭蕉以前の主知主義のトリピアルに比して)の勝利が果してプラスになったかどうかは疑問である。

・・・蕪村は芭蕉の単純なリリシズムにドラマチックな要素を加えた俳人として代表的な存在である。芭蕉流の俳句が知的な要素をとりもどし、詩としての全体的なアウトラインを回復するために五十年以上の歳月を要したことになる。

・・・明治の俳人子規が蕪村の句に傾倒していたことは周知のところであるが、かれは蕪村の鋭い描写力を学んだにすぎなかった。

・・・子規の写実主義俳句は現代俳句への新しいリアリズムの道を切り開いたが、俳句はふたたび創造性を失うことによって、詩としての全体的なアウトラインをもたないものとなってしまったのである。

 この「ドラマチック」ということは、「虚構性」ということであり、詩人・克衛、俳人・重信、歌人・邦雄、そして、マルチニスト詩人・修司も、共通して、蕪村好きということが窺えるのである。ただ、詩人・克衛は、定型の短詩形の「短歌・俳句・川柳」に関して、下記のような一文を、「川柳」というところで綴っており、これらのジャンルと克衛がライフワークとしている「詩」というジャンルでは、相当の距離があるということを明確に自覚していたということは、特記しておく必要があろう。

・・・そもそも俳句とか川柳とかという定型詩(注・短歌も入るだろう)に首をつっこみながら、前衛的な実験をしようとすることは認識不足もいいところであって、まるで現代詩が何のために存在しているのか考えてみたことがないとすれば、川柳長屋(注・短歌、俳句も含めて)に住んでみたところでろくなものの作れるわけがない。



高柳重信周辺19:27|-|-|
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高柳重信・第一句集『蕗子』
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前衛派の旗手たち(その七)より

 ここで、再び、北園克衛、塚本邦雄、高柳重信、そして、寺山修司の年代というのを見てみると、克衛が、一九〇二年、邦雄が一九二〇年、重信が一九二三年、そして、修治が一九三五年の生まれで、この四人の中では、邦雄と重信とは、殆ど、同時代に成長して、同じような土俵で、そのジャンルの、短歌、そして、俳句の世界に身を投じていたということが窺い知れる。
 事実、この二人の交遊は、敗戦直後の混沌とした未曾有の日本の大変革期に始まる。重信は、邦雄をして、「彼は『メトード』という雑誌を出していた。手紙を往復しながら、彼は三十一音と全く等量の言葉で、今までの短歌とは全然別の詩を書くことを決意して実験をはじめ、僕も、十七音と等量で今までの俳句と全くちがった詩を決意した」と記しているという(『現代俳句の世界 金子兜太・高柳重信集』)。
 重信の第一句集『蕗子』は、一九五〇年、二十七歳のとき刊行された。その「序」は、重信の俳句の師の富沢赤黄雄が草した。そこで、赤黄雄は、次のとおり記述しているという(『現代俳句の世界 金子兜太・高柳重信集』)。

・・・「彼の詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある」。

・・・「今後更に、より絵画的造型へ近接するのではないかとさえ考えられる」。

・・・「彼の言葉の秩序への極度の追求、純粋の言葉の有機的構成、固定概念の拒否。即ち彼の構成計画は」「常に言葉の不純による詩の時間制の断絶を恐れる詩人本来のものに外ならない」。

・・・「詩の時間制とは」「言葉の有機的統一であろう。即ち彼の言葉の連続性と不連続性の統一を造型性に置こうとする。これが彼の詩の方法である」。

・・・「彼のしばしば採らざるを得ない多行形式の」「必然性がここにある」。

・・・「俳句といふ短詩を一行詩だと強硬に定義づける人々は、何故に俳句は一行詩でなければならないのかといふその必然を、伝習や技術の上からでなく、その本質にあひわたつて明示する責任をとらねばなるまい」。

・・・「ともあれ高柳重信は、今日この一書を彼の最初の実験として提示した」。

 この重信の「詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある」という基本的な考え方は、北園克衛らが試行した、「ことばの意味よりも文字のかたちを重要視したり、一行に一語の詩、『連』が三角形になる詩など、形状やパターンに独特の視線を注いで興味深い成果を導いた」ところの、克衛の「抒情・和風・実験の三つの詩群」のうちの、その「実験」の詩群の中に、それらの原型を見ることが可能であろう。
 そして、ここで面白いことは、重信が生を享けた、一九二三年の関東大地震に前後して席巻したのが、克衛らの「前衛派」であり、これらのところを、ネット記事(「ウィキペディア」)では、克衛の紹介で、「関東大震災のあと、大正末期から昭和初期にかけて華開いた前衛詩誌文化のなかで活躍、いわゆるモダニズム詩人、前衛詩人の代表格とされる。日本で初めてのシュルレアリスム宣言(連名)を配布したことからシュルレアリスムと関連付けられることが多いが、ごく短期間で離脱し、該当する作品も少量にすぎない。むしろバウハウスの造型理念を視覚的に享受した影響が大きい」と記述しているところである。
 ここでは、この関東大地震に前後しての、これらの「前衛派」的な潮流は、単に、克衛らの詩壇だけに認められるところの流れではなく、俳壇では「自由律俳句」、そして、歌壇では「口語自由律短歌」として、一つの潮流となっていくということを付記して置きたい(これらのネット記事(「ウィキペディア」)は、末尾に載せておきたい)。
 前衛派の詩人、克衛は、それらの潮流の真っ直中に身を置いていたが、短歌の邦雄も、俳句の重信も、その後に続く、大きな変革期の、大平洋戦争の未曾有の敗戦後に、その先行的な克衛らの前衛派的な試行を、大胆に吸収し、それを発展させるという、そういう時代史的背景下にあったということは、ここで指摘をして置こう。
 こういう時代史的背景の中で、先に紹介した、邦雄の次の短歌は、実に暗示的である。

○日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)

 この「皇帝ペンギン」というのは「天皇」の、そして、「皇帝ペンギン飼育係り」というのは、「天皇の一臣民」の、その比喩ととらえることも可能であろう。さらに、「皇帝ペンギン」を「古代歌謡から延々と続く日本歌壇」そのものを、そして、「皇帝ペンギン飼育係り」を「邦雄を含めての歌人一人ひとり」を暗示していると理解することも可能であろう。それに続けて、この「皇帝ペンギン」を「短歌・俳句という定型」そのものを、そして、「皇帝ペンギン飼育係り」は、「その定型の奴隷のような歌人・俳人」を比喩しているという鑑賞も、これまた、面白かろう。いずれにしろ、この一首の主題は、「日本脱出したし」であり、それは「新しい戦後のスタート」の決意表明でもあろう。
その邦雄の決意表明は、戦後間もない一九五一年(邦雄・二十九歳)の第一歌集『水葬物語』、一九五六年(邦雄・三十四歳)の第二歌集『装飾楽句(カデンツア)』、そして、一九五八年(邦雄・三十六歳)の、この「皇帝ペンギン」を巻頭歌とする、第三歌集『日本人靈歌』として、結実をしてくるのである。この一連の歌人・塚本邦雄の軌跡というのは、壮大なドラマを見る思いがしてくる。

 さて、重信の第一句集『蕗子』(一九五〇年・二十七歳)は、「タダ コノマボ ロシノモニフクサン ヴイリエ・ド・リラダン伯爵」という前書きがあり、「逃竄の歌」という題名の下の、次の十六句(連)からのものを冒頭にして始まる。


身をそらす虹の
絶巓
    処刑台

  ※
わが来し満月
わが見し満月
わが失脚

  ※
胸には肋骨
 逃竄なりや
  旅なりや

  ※
佇てば傾斜
 歩めば傾斜
  傾斜の
   傾斜

  ※
裏切りだ
何故だ
薔薇が焦げてゐる

  ※
恋人の 視線のはづれ
ひそかに 死を娶る

  ※
のぼるは夕月
負傷を持つてゐる乳房

  ※
ぽんぽんだりあ
ぱんぱんがある
るんば・たんば

  ※
「月光」旅館
開けても開けてもドアがある

  ※
月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵

  ※
風が死ぬ
胃の腑の中まで逃げてはきたが

  ※
何を葬る
 掌上の露
 足下の露

  ※
墓標の前
 みなうしろむき
 その背の眼

  ※
夜のダ・カボ
ダ・カポのダ・カポ
噴火のダ・カポ

  ※
終らぬ序曲
 終らぬ序曲
終らぬ序曲

  ※

七線
わが箴言をここに書く

 これらの、重信の十六句(連)を見ただけで、二十一歳年長の北園克衛は、「容易ならざる創作人が現われた」と思ったのではなかろうか。そして、三歳年長の塚本邦雄は「好敵手現る」という感慨を懐いたのではなかろうか。十二歳年下の寺山修司は、この句集が刊行された、一九五〇年には、十四歳で、「青森市歌舞伎座に引き取られポーを読みふける」と、いまだ、「俳句・短歌・詩」の世界は未知の世界であったのかも知れない。
なお、この重信の「リラダン伯爵」については、次のアドレスの「松岡正剛の千夜千冊」
で紹介されている。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0953.html

(自由律俳句)

明治時代後期、河東碧梧桐が新傾向俳句を創作したことに始まる。明治44年(1911年)に荻原井泉水が俳誌『層雲』を主宰し確立された。当初、碧梧桐も層雲に加わっていたがのち離脱した。大正時代になると自由律俳句を代表する俳人として層雲より尾崎放哉、種田山頭火が登場する。一方、層雲を離脱した碧梧桐は大正4年(1915年)、俳誌『海紅』を主宰。中塚一碧楼がこれを継ぎ自由律俳句のもう一つの柱となった。尚、この一碧楼が自由律俳句の創始者とする見方もある。しかしながら、自由律俳句は放哉、山頭火の活躍した大正時代〜昭和初期以降衰退している。昭和時代の終盤に放哉に影響を受けた夭折の俳人住宅顕信が登場する。平成に入り、山頭火がクローズアップされ自由律俳句の再評価がなされている。また現実の人物ではないが、いがらしみきお作のぼのぼのに登場するオオサンショウウオのおじいさんが 詠んでいることでもしられる

(口語自由律短歌)

大正13年(1924年)に、石原純の発表した歌が、歌壇において注目を集めた自由律の最初であろう。石原純は、その後、自由律短歌論を展開。やがて、この名称を定着させた。石原の自由律短歌は旧来の文語体ではなく口語体を採用していたため、自由律短歌はそのまま口語短歌運動と結び付き、口語自由律短歌として発展してゆく。昭和時代になると、金子薫園、土岐善麿、前田夕暮も参加し、口語自由律短歌は興隆期を迎える。特に、前田夕暮は、主宰する結社全誌をあげて自由律を提唱し、自由律短歌集を次々と刊行して、口語自由律短歌の代表作を残した。しかし、昭和10年代半ばには、全員、定型歌に復帰している。昭和末期、ライトヴァース短歌と呼ばれた、加藤治郎、荻原裕幸、穂村弘らが発表した、記号短歌や、散文に近い、字余り・字足らずの多い短歌群は、昭和初期の口語自由律に通じるものとも言えよう。




高柳重信周辺19:22|-|-|
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高柳重信・句集『伯爵領』より
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前衛派の旗手たち(その二)

 前衛派の旗手の北園克衛について、ネット記事(「ウィキペディア」)では、次のように紹介している。

・・・関東大震災のあと、大正末期から昭和初期にかけて華開いた前衛詩誌文化のなかで活躍、いわゆるモダニズム詩人、前衛詩人の代表格とされる。日本で初めてのシュルレアリスム宣言(連名)を配布したことからシュルレアリスムと関連付けられることが多いが、ごく短期間で離脱し、該当する作品も少量にすぎない。むしろバウハウスの造型理念を視覚的に享受した影響が大きい。

 この一九二三年(大正十二)の関東大震災のとき、克衛は二十歳前後であったが、いみじくも、前衛派の俳人、高柳重信が誕生した年でもあった。この重信のネット記事(「ウィキペディア」)は次のとおりである。

・・・高柳重信(たかやなぎ・じゅうしん、1923年1月9日 - 1983年7月8日)は俳人。
東京小石川生れ。本名は高柳重信(しげのぶ)、俳人としては「じゅうしん」を自称した。 早稲田大学専門部法科卒業。学生時代に「早大俳句研究会」に参加、富沢赤黄男(かきお)に師事した。 1958年(昭和33年)に赤黄男、三橋鷹女、高屋窓秋、永田耕衣を擁して「俳句評論」を創刊した。3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱、実践し金子兜太とともに「前衛俳句」の旗手となった。後年、山川蝉夫という別人格を登場させ発想と同時に書ききるという、一行の俳句形式も行った。俳誌「俳句評論」代表。総合誌「俳句研究」(俳句研究新社)編集長を歴任した。 妻、高柳篤子と離婚後、俳人中村苑子と生涯をともにしたが、結婚はしなかった。 歌人の高柳蕗子は篤子との実子。句集に「蕗子」他。「高柳重信全集」(全三巻)などがある。 ・・・

 かって、「高柳重信の多行式俳句」ということで、簡単な鑑賞の一試行(下記のアドレス)をしたことがあるが、今回、克衛の代表作「単調な空間」に接して、次の重信の不可思議な作品を想起したのであった。

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_25.html

・・・  ●●○●
     ●○●●○
     ★?
     ○●●
     ―○○●

「句集『伯爵領』。この句集末尾の作品。どう解釈するかは読者の自由。相撲の星取り表にも近いが、異様なマーク「★?」や「―」もある。異次元の夜空の略図だろうか。宇宙人の言語だろうか。人を食った謎がここにはある。俳諧精神のなせるわざか。(無季)」
 上記の「●○★?―」の記号のみ表示のものが、高柳重信の、重信の句集『伯爵領』の最後を飾る一句である。そして、上記の括弧書きは、夏石番矢さんの解説文である。この句(?)について、藤島敏さんは、次のように解読(?)した。
     死死生死
     死生死死  
     エロス?
     生死死
     ―死死生
 この「エロスとタナトス」を暗示するようでもあるが、これまた、これらの句(?)が収められているところの、その題(章)名らしき「領内古謡」のことを考えると、ここは、単純に、次のように口ずさむのがよいのかも知れない。
     黒黒白黒
     黒白黒黒
     星(わからない)
     白黒黒
    (そうだ)黒黒白
 とした上で、私の「高柳重信」の「解読フィルター」の「虚実(論)」でこの句(?)を鑑賞したい。
     虚虚実虚
     虚実虚虚
     句?
     実虚虚
     ―虚虚実   ・・・

 上記の「『高柳重信』の『解読フィルター』の『虚実(論)』」とは、この句の鑑賞前の次の句に関連してのものであった。

・・・ 泣癖の
    わが幼年の背を揺すり
    激しく尿る
    若き叔母上

 高柳重信の『蒙塵』所収の「三十一字歌」と題する中の一句である。「五・十二・七・七」のリズムである。このリズムは、「五・七・五・七・七」の短歌のそれを意識したものであろう。これが俳句なのであろうか?  どうにも疑問符がついてしまうのである。ただ一つ、重信は「定型破壊者」ではなく、極めて、「定型擁護者」と言い得るのではなかろうか。この意味において、自由律俳人の「自由律」と正反対の、いわば「外在律」に因って立つところ作家ということなのである。それと、もう一つ、この『蒙塵』という句(多行式)集の制作意図があって、それは「王・王妃・伯爵・道化・兵士達のドラマ」仕立ての中での、その場面・場面の描写というような位置づけで、これらの句がちりばめられているようなのである(高橋龍稿「俳句という偽書」)。すなわち、俳諧論の「虚実論」の「虚(ドラマ)の虚の句(多行式)」ということなのである。これらのことについて、高橋龍さんは次のとおり続ける。「今日、正あるいは真とされるものは、十八世紀末の啓蒙主義、十九世紀以降の科学主義がもたらした大いなる錯覚にすぎない。正と偽は、同一舞台に背中合わせに飾られた第一場と第二場の大道具のごときもので、『正』という第一場を暗転させるのが詩人の仕事である。高柳さんはいちはやく第二場『偽』の住人となり、さらに奈落に下り立って懸命に舞台を廻そうとした人であった。それを念うと、子規以降のいわゆる伝統俳人の営みは、折角の『偽書』を『正書』に仕立て直そうとするはかない努力であったような気がしてならない」。その意味するところのものは十全ではないけれども、要する、「高柳重信の多行式俳句の世界は、日常の世界から発生するのではなく、その異次元の『偽』の世界であり、『虚』の世界のもの」という理解のように思われる。そして、高橋龍さんがいわれる「子規以降の伝統俳人の営み」は「実(現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」という営みであって、高柳重信の世界は、「虚(非現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」、その営みであったということを、高橋龍さんは指摘したかったのではなかろうか。とにもかくにも、高柳重信の多行式俳句の理解については、これらの「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」との、この二方向から見定める必要があるように思われるのである。 ・・・

 ここで、克衛と重信らが目指したものは、この最後の「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」ということを、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」とでも置き換えたいのである。そして、その背後には、克衛が多大な影響を受けたという、ドイツの「バウハウスの造型理念」などが横たわっているという認識である。ここで、「バウハウス」について、ネット記事(「ウィキペディア」)を付記しておきたい。

・・・バウハウス(Bauhaus)は、1919年、ドイツ・ヴァイマル(ワイマール)に設立された美術(工芸・写真・デザイン等を含む)と建築に関する総合的な教育を行った学校。また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間であるが、表現傾向はモダニズム建築に大きな影響を与えた。





高柳重信周辺19:15|-|-|
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川端茅舎

bousha

○ 白露に鏡のごとき御空かな
○ 金剛の露ひとつぶや石の上
○ 一連の露りんりんと糸芒
○ 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり

 昭和六年十二月号「ホトトギス」の巻頭を飾った露の四句である。この四句に「茅舎浄土」の世界の全てが隠されている。一句目の「白露に」の「白」、そして、「鏡のごとき」の「ごとき」の比喩。二句目の「金剛の」の「金剛」の仏教用語。三句目・四句目の「りんりんと」の「りんりん」、「たぢたぢと」の「たぢたぢ」の、擬音語(擬声語)・擬態語。これらは、茅舎の終生の、いわば、茅舎作句工房の主要なツール(道具・用具・技法など)ともいえるものであろう。これらのツールを持って、「ホトトギス」流の「客観写生」の世界を、その「客観写生」の本質のところを探り当てる「象徴」的な、いわば、「茅舎浄土」の世界へと飛翔させるものであった。一句目の「白」、それは、「新涼や白きてのひらあしのうら」(昭和五年作)の、病弱の茅舎の象徴的な措辞といっても良いであろう。二句目の、仏教用語の「金剛」は、実在の写生句が、広大無辺な宇宙的拡がりの象徴句へと脱皮する、その媒介的な役割を担うところの、茅舎にだけ許される特権的な領域のものであった。そして、一句目の「ごとき」の直喩や、三句目、四句目の、「りんりん」・「たぢたぢ」の、擬音語(擬声語)・擬態語もまた、その「茅舎浄土」の象徴的世界には、欠かせないところの、必然的な要請でもあったのだ。これらの四句に、「茅舎浄土」の世界の、その全てが宿されている。そして、それが故に、これらの露の四句と他の多くの露の佳句とを有する、茅舎は、「露の茅舎」と呼ばれるのであった。



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忘れ得ざる俳人たち(この一句)12:07|-|-|
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松本たかし
takashi

○ 山越えて伊豆へ来にけり花杏子 

 松本たかしの、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた句である。そのときの応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらにその中の「帝国風景院賞」(「優秀句・金牌賞」の百三十三句のうちの最優秀句)を射止めたものが二十句で、この句は、その二十句のうちの一句ということになる。
 「日本新名勝」の百三十三景のうちの「温泉」の部の「熱海温泉」の句である。「熱海温泉」の句というよりも「伊豆・天城山」の句という感じでなくもない。川端康成の名作「伊豆の踊子」は、昭和元年(一九二六)の作。上五の「山越えて」も、「伊豆へ来にけり」も、そして、下五の季語が、「花杏」の措辞ではなく「花杏子」というのも、どことなく、康成の「伊豆の踊子」を連想させる。
「たかし」は、明治三十九年(一九〇六)生れ、昭和三十一年(一九五六)没。東京都神田猿楽町出身で神奈川県鎌倉市浄明寺に住んでいた事もある。高浜虚子に師事し、「ホトトギス」の同人となる。能役者の名家に生まれたが、病身のため能役者を断念。平明な言葉で、気品に富む美しい句を残した。昭和二十八年(一九五三)、第五回読売文学賞の詩歌俳句賞を『石魂』で受賞。弟に能楽師の松本惠雄(人間国宝)。

http://yahantei.blogspot.com/2008/08/blog-post.html

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忘れ得ざる俳人たち(この一句)09:36|-|-|
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綿十句(平成八〜十)
○ ほかほかの飯に海苔の香四日はや
○ かじかんで銅鐸打つ明日を展かねば
○ 菜飯食むしばし花眼の目をつむり
○ 存問の囀りやまず座禅堂
○ 信濃路や草の匂ひの清水湧く
○ 天命に和して藪蚊をつかみ取る
○ 蝉はたと止む日や綿を打ちに出す
○ オカリアを吹くほど山の水澄めり
○ 巡礼の果ては薄の風の中
○ 雪吊の町蒼天を打てば鳴る


横山泠子の俳句08:56|-|-|
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